児童福祉の父「石井十次」

2016年12月31日 筆記試験対策 google  0

児童福祉の父「石井十次」

石井十次の幼少時代

江戸時代、慶応元年に、宮崎県の高鍋藩の下級武士の長男として誕生した石井十次。4歳で寺子屋に入り、6歳で明倫堂にて学び始めます。明倫堂とは、高鍋藩の藩校で秋月種茂公によって作られ、儒教的で徳を重んじる学びの場として機能していました。
 
ここで育ったことが、その後の十次の人格形成に大きな影響を与えたといわれます。困った人を放っておけない性格は母譲り。母もまた貧しい子へ物心両面でサポートを行っていました。
 
その背中を見て育ったことも大きいといわれています。明倫堂を首席で卒業した石井十次は、海軍士官となって国の役に立つべく東京へ出てきます。

 
 

石井十次の青年時代

脚気を患い、わずか1年で帰郷した石井十次。16歳で結婚をし、小学校教師や書記など職を転々とします。宮崎病院長の荻原百々平医師との出会いから、医学の道とキリスト教の道を志すこととなります。

 
 

石井十次が児童福祉の道へ入ったきっかけ

岡山で医師として見習いをしていた診療所の隣に、キリスト教の巡礼所がありました。そこで出会った子連れの貧しい女性から一人の男の子を預かります。
 
教育を受けさせ、手に職を付けさせて自立へと導きました。徐々に預かる子どもが増え、三友寺の境内を借り、孤児教育会を立ち上げます。医師への道と孤児救済の道の両輪を抱えることに苦悶したのち、生涯を児童福祉に捧げることに心を決めます。
 
石井十次が面倒を見てきた子どもたちの人数は二千名以上に及んだといわれています。

 
 

石井十次のユニークな孤児教育会

石井十次は、「事業部」というものを作り、子どもたちが自立できるような職業訓練をできる仕組みを作りました。活版や機織りなど、貴重な収入源となる職業訓練ができるようにしました。
 
また、体も心も健康に育つような養護方法を編み出します。里子制度も日本で初めて実行したといわれています。資金は寄付に頼っていましたが、のちに「音楽隊」という児童たちによる音楽の演奏会を行い、そののちに孤児院の現状を伝えて義援金を募る会を始まります。音楽隊は評判をよび、全国各地で公演を行うほか、台湾や中国など海外での公演も行っていました。

 
 

石井十次の故郷宮崎への移転

フランスのルソーによる「エミール」に感化されていた石井十次は、自然の中で自由に学ばせるユートピアを作るべく、故郷宮崎の茶臼原の開拓と移転を実現します。働き学ぶという思想を実現した石井十次。しかし無理がたたり、移住後2年で48年の生涯を閉じました。