知的障害児福祉の創始者「石井亮一」

2017年1月1日 筆記試験対策 google  0

知的障害児福祉の創始者「石井亮一」

日本初の知的障碍児福祉施設滝乃川学園と石井亮一

明治20年代、富国強兵がスローガンとして軍国主義が盛んになっていたころ、知的障碍者の地位は低く、人権も保障されていない時代でした。そんな中で、私財の一切を投じ、知的障碍児福祉に人生を捧げたのが、石井亮一です。

 
 

石井亮一の生い立ち

慶応3年、佐賀藩士の六男として生まれた石井亮一。大隈重信と親しかったという父は、健康上の理由で歴史の表舞台に出ることはありませんでしたが、明治政府司法官への登用の打診もあったといいます。
 
石井亮一は科学者を志し学びを進めましたが、東京大学工学部を体格不良で不合格になってしまいます。科学者の道をあきらめがたく、アメリカ留学を目指し立教大学へ進学。卒業時に留学のための健康診断を受けますが、また体格上の理由で不合格になります。
 
立教大学在学中に学長のウィリアムズ主教の影響でキリスト教徒となった石井亮一は、学長の勧めで立教女学校の教頭となり、教育者の道を歩むことになります。

 
 

濃尾地震から始まりった孤児院事業、知的障碍者支援施設への変遷

立教女学校の教頭の職にあった石井亮一が、濃尾地震で孤児になった女児たちが、悪徳業者により売春などをさせられていると聞いたのは1891年の震災発生直後のことです。

 
この事実に憤慨した石井亮一は、私財を投じて女児たち21名をすぐに保護し、孤児院を作ります。その時石井亮一は若干24歳でした。この孤児院は聖三一孤女学院と名付けられました。その生徒の中に、知的な発達がくれた女児が2人いました。この2人に興味を抱いた石井亮一は渡米し、知的障碍者に向けた教育法をセガンの未亡人から学びます。

 
また、アメリカ各地の施設を視察しました。そして帰国後、聖三一孤女学院を滝乃川学園と改称し、知的障碍者施設として運営していくことに心を決めます。名称は、施設のあった東京都北区滝野川の住所に由来しています。

 
 

妻筆子との出会い

女子教育者として頭角を現していた渡辺筆子。男爵渡辺清の長女で、この時代に欧州への留学も経験しており教育者としての職に就いていました。

 
筆子は官吏との間に3人の娘がいましたが、2人は病死、1人は知的障害を持っていました。さらに夫も病死しています。筆子が教職に就いていた女学校に石井亮一が招かれたことにより出会います。

 
石井亮一の滝乃川学園に娘を預けた筆子は、同じクリスチャンである石井亮一との関係を深め、結婚に至ります。その後、夫婦二人三脚で滝乃川学園の運営に力を尽くしました。