「この子らを世の光に」糸賀一雄が伝えたかったこと

2017年1月4日 筆記試験対策 google  0

「この子らを世の光に」糸賀一雄が伝えたかったこと

糸賀一雄の生い立ち

大正3年に鳥取で生まれた糸賀一雄。母子家庭で育ちました。青年期に洗礼を受けたキリスト教の思想を根底に持っていました。
 

京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、滋賀県庁に勤務し、秘書課などに従事していました。昭和21年、戦後の混乱の中で池田太郎氏などから懇願され、戦後孤児の収容および知的障害児らの入所、医療、教育を行う「近江学園」の園長に就任することとなります。

 
 

近江学園と糸賀一雄

近江学園で、糸賀一雄は実践の現場で経験を重ねました。戦後の混乱の中で生活もままならない時代の中で、目指したのは「暖かく楽しい、おなかがいっぱいになる家庭」のような場所でした。

 

中、子どもらと寝食を共にする保母の重要性を目にします。保母は、日々の生活の中で子どもらの発達を目にし、その介助をし、その事実を糸賀一雄らと共有していきます。重度の障害を持つ子が、自ら動作をしようとする瞬間を保母がとらえ、それが発達であると保母が認識し、自らの援助行動のひとつひとつに重みを感じるというような実践と振り返りのサイクルを目の当たりにする中で、糸賀一雄は福祉思想を育んでいきます。

 

近江学園は、児童福祉法の制定後に「養護施設兼精神薄弱児施設」に位置付けられました。障害者を分けて収容するのではなく、社会と橋渡し機能としての施設を目指していたといいます。さらに1963年には重症心身障害児施設「びわこ学園」を開所しています。

 

人がありのままに存在することの価値を見出し、共生社会の大切さをいち早く訴え始めました。糸賀一雄は成年を迎えた子らの行き場作り、自立へ向けての訓練など、現代に続く障害者の生涯にわたる生活を支える仕組み作りにも尽力しました。

 

 

「この子らを世の光に」と糸賀一雄

この子らとは、知的障害児を指しています。ふつうは「世の光をこの子らに」となってしまうところですが、糸賀一雄は先の保母らとの実践の経験から、逆に社会の片隅に追いやられていたこの子らの持つチカラを世の中のチカラへという気持ちを表しました。

 

障害者は助けられる存在ではなく、健常者と共に生き、共に助け合う存在であることを訴えました。また1968年、『福祉の思想』という著書の中で、どんな障害を持つ子でも、子どもが発達する権利とその保証をすべきであると提言しました。ノーマライゼーションの先駆けとなる考え方でもあります。

 

知的障害者福祉法の成立にも尽力した糸賀一雄ですが、1968年、持病の心臓発作により54歳の若さで急逝しました。