保育園の原型をつくった「野口 幽香」

2017年1月3日 筆記試験対策 google  0

保育園の原型をつくった「野口 幽香」

野口幽香の生い立ち

兵庫県姫路市、姫路城のすぐそばで5人兄弟の長女として野口幽香は生まれます。姫路藩の下級武士であった父野口野は「子どもは宝だ」と考え、今でいう教育委員会に勤め、教育に人生を捧げていました。
 
そのような父のもとで野口幽香も5歳から寺子屋に通い、英語も習っていました。小学校卒業後は、女子にしては当時珍しく中学校に合格し、進学を果たします。しかしながら紅一点であったためいじめにあい、1年で退学した野口幽香は、花嫁修業に入りますが、結婚話の破断を機に、東京女子師範学校を受験し、合格します。当時姫路から東京に出るのは留学に出るのと同じくらいの気持ちであったといいます。
 
入学は1885年でした。その後、5年間の学生生活の間に両親は亡くなり、キリスト教に入信し、フレーベル教育と出会う激動がありました。卒業後、野口幽香は日本初の幼稚園である、女子師範学校付属の幼稚園に保母として残ることとなります。

 
 

スラムでの子どもとの出会いと二葉保育園の開園

野口幽香が幼稚園への勤務の途中に通過していたのは、今でいう四谷の近辺は当時東京の三代スラムの一つでありました。同じ幼稚園に勤務していた森島みねと共にそこで子どもたちを目にします。
 
母親に仕事の邪魔だと家を出される子、弟や妹の子守をする子、くず拾いをする子・・・。野口幽香はその子どもたちへの思いを宣教師に打ち明け、慈善音楽会での寄付金を元手に貧しい子どもたちのための幼稚園を開きました。「教育を施し、よき国民となす」という概念に賛同した華族や実業家らの寄付をもとに運営していました。
 
野口幽香は幼稚園の仕事と掛け持ちし、忙しい日々を送っていました。森島みねが結婚により第一線を退いた後、名実ともに野口幽香が二葉幼稚園の大黒柱となりました。乳幼児も預かっていたこと、教育はもちろんですが養護も重視していたことから、保育園とのちに改称しています。

 
 

晩年の野口幽香

野口幽香は、二葉保育園の運営に携わり、学習院幼稚園園長の職も全うしながら、関東大震災後には「母の家」や新たな託児所も開設しています。深川に保育園併設の母子ホームも作っています。

 
野口幽香が老境に入り職を辞されたのは、三笠宮様の教育を託され任を終わられたのちの1922年のことでした。後を継いだのは徳永ゆきでした。晩年は「幽香庵」と呼ばれる上落合の家にこもり、俳句や美術を楽しむ生活を送りました。1950年、野口幽香は80年の生涯を閉じました