児童自立支援施設の元祖「留岡幸助」

2017年1月2日 筆記試験対策 google  0

児童自立支援施設の元祖「留岡幸助」

留岡幸助の生い立ち

留岡幸助は1864年に備中松山藩の城下で吉田万吉のもとに生まれました。生後、養子として米屋を経営していた留岡金助の息子となりました。

 

キリスト教との出会いと留岡幸助

町人階級であった留岡幸助は、幼少時代に元武士階級である士族の子トラブルを起こし、階級差別を目の当たりにします。そして16歳の時、西洋の軍談という名の集まりでキリスト教と初めて出会い、「神の前ではみな平等である」という説話を聞いて感動します。
 
洗礼を受けてキリスト教にまい進する留岡幸助に怒った父金助は座敷牢に閉じ込めるなどします。そこから脱出した留岡幸助は、京都の同志社英学校を頼ります。
 
新島校長のもと勉学に励む中で、社会の闇である監獄に目を向け、そこに光を照らすことこそ自分の天職だと思うようになります。同志社卒業後、誘いを受けて北海道の監獄での職に就くこととなります。結婚した妻と乳飲み子も一緒でした。

 
 

留岡幸助が監獄の仕事で学んだこと

監獄で凶悪犯と接していくうちに、留岡幸助は彼らの成育歴の中で、多くの者が少年期に非行に走っていることを知りました。
 
留岡幸助は少年時代に手を差し伸べることこそ重要と考えるようになりました。そこで留岡幸助は私財を投げ打ってアメリカに留学し、監獄での少年感化事業を学びました。
 
中ブロックウエーとの出会いは大きく、監獄事業一筋に捧げた生き方、思想に感化されました。座右の銘である「一頭白頭に至る」はこのとき心に決めたものだといわれています。
 
 

家庭学校の設立と留岡幸助

1899年、留岡幸助は一人の少年のために、東京の巣鴨に家庭学校を設立します。この直後に妻を亡くし、一層職にまい進する留岡幸助。
 
15年余りの実践の中で改善率7割という当時においては画期的な数値を出します。社会復帰はもちろん、教師になるものまでいたそうです。厳しい大自然こそ人間を育てると考えていた留岡幸助は、念願かなって北海道の原野の払い下げを受け、北海道へと拠点を移していきます。

 
 

留岡幸助の北海道における実践

家庭学校で留岡幸助が大事にしたことは、家庭的教育、自然的教育、宗教的教育の3点でした。宗教ではキリスト教を押し付けることはなく、日本土着の農政家である二宮尊徳に傾倒していました。
 
北海道家庭学校も当初は地元住民からの反対にもあいましたが、教師が先頭に立って農地開拓、教育を行っていきました。その地道な実践の中で地域に根付き、今では地域の誇りとなっています。留岡幸助は1934年に生涯を閉じました。